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創業者

warren johnson
ウォーレン・ジョンソン
1847年、バーモント州の開拓農家に生まれたウォーレン・シーモア・ジョンソンは、ウィスコンシン州西部の農家で貧しい少年時代を送りました。 暮らしは厳しく、 キャンバス地で自分の洋服を作り、インクで色を染めて着るような日々でした。

 

しかし、貧しい生活を強いられたからといって、学ぶことへの情熱は決して衰えることはありませんでした。 正式な学校教育は受けることができず、独学でしたが、彼には「探求する」という天賦の才能がありました。 少年時代にも、1冊の本を持ち歩き、そこにスケッチしたり、数学や化学、電気に関するさまざまな発明を書き込みました。 教育が受けられなかったにもかかわらず、ジョンソンは測量師、カントリースクールの教師を経て、教育長となり、1876年から1883年には、ウィスコンシン州ホワイトウォーターの州立師範学校で教授の職を務めました。

 

教授仲間からは「極めて独創的な教授のうちの一人」だと称されていました。 ジョンソンは、数学、科学、素描、書法を教えていましたが、本当の情熱は依然として実験や発明に向けられていました。 彼の研究室では、当時、脚光を浴びていた電気化学を含め、さまざまな分野の実験が繰り広げられていました。

ウィスコンシンには厳しい冬が訪れることもあり、当然、ジョンソン教授の教室は、いつも寒すぎるか、暑すぎるかのどちらかでした。 教室は居心地が悪く、用務員が地下室にあるボイラーのダンパーを調節するために、室温を確認しに何度もやって来るので、その度に授業が中断されました。 そこで、ジョンソンはこの問題の解決に乗り出しました。

 

彼は3年の歳月をかけて、室温を制御・調節することのできる装置を発明し、1883年には、この「electric tele-thermoscope(電気式遠隔温度計)」で初の米国特許を取得しました。 後に「電気式室内サーモスタット」として知られるようになるこの装置は、封入されたバイメタル素子を使用し、電気回路の一方のワイヤを固定端に付着させ、他方のワイヤをカップ状の容器に入った少量の水銀に接触させるという構造になっています。 気温の変化によって、熱素子の自由端が水銀を出入りし、電気回路を開閉することにより、地下室にある彼の教室用のダンパーを制御できるという仕組みです。 これが、その後ひとつの産業を生む発明となりました。

telethermoscope
sales staff
ジョンソンは、このアイデアを発展させるため、ウィスコンシン州最大の都市であるミルウォーキーに移ります。 2年後、妻のコーラとふたりの息子が合流する頃には、地元の実業家であり、投資家でもあるウィリアム・プランキントンと共同で事業を始めていました。 マーク・トウェインが「ハックルベリー・フィンの冒険」を出版し、ヨハネス・ブラームスが最後の交響曲の作曲を完成させたのと同じ1885年に、ジョンソン教授とウィリアム・プランキントンは、ジョンソン・エレクトリック・サービス・カンパニーを立ち上げます。

 

「知的で、権高で、芸術肌で、要求の厳しい指導者」であったジョンソンは、26年にわたりこの会社の経営に貢献しました。 彼は生涯を通じて発明に情熱を燃やし、50件もの特許を取得しています。 ジョンソンが腎不全で亡くなったのは、1911年、彼の名がつけられた会社の一事業となっていた自動車カスタム事業のプロモーションに出かけた旅先でのことでした。